考題索引

第十四章だいじゅうよんしょう 戦前せんぜんから戦後せんご

第一節だいいっせつ 戦前せんぜん

(一)庶民文化しょみんぶんか

 124代目だいめ天皇てんのう昭和天皇しょうわてんのう(1901-89)の登場とうじょうが、昭和時代しょうわじだい幕開まくあけであった。1931(昭和しょうわ6)ねん満州事変まんしゅうじへんから連続れんぞくして二年間にねんかんもの深刻しんこく農村恐慌のうそんきょうこうこり、また、1935ねん天皇機関説てんのうきかんせつ事件じけんなどによって、思想しそう学問がくもんたいする統制とうせい強化きょうかされる一方いっぽうで、翌年よくねん二・二六事件ににろくじけんなどの不祥事ふしょうじこった。このようななか文化面ぶんかめんには体制たいせい真正面まっしょうめんから対抗たいこうするような社会運動しゃかいうんどうもあり、また、刹那的享楽せつなてききょうらくはしるような大衆文化たいしゅうぶんかあらわれた。

 庶民しょみんまち浅草あさくさ 昭和初期しょうわしょきは、西洋せいよう物質文明ぶっしつぶんめいやモダニズムの影響えいきょうけ、エロ・グロ・ナンセンスの風潮ふうちょうこった時期じきである。ラジオ、トーキー映画えいが、モガ(モダンガール)とモボ(モダンボーイ)、ダンスホール、レビュー、麻雀まーじゃん、ベービーゴルフ、コリントゲーム、ヨーヨーあそびなどがブームとなったことなどが庶民文化しょみんぶんか大特徴だいとくちょうだ。

 浅草あさくさはこのような文化的風潮ぶんかてきふうちょう重要じゅうよう役目やくめになっていた。1873(明治めいじ6)ねんに、浅草寺せんそうじ境内けいだいまわりの公園こうえんねて浅草公園あさくさこうえんになって、日本一にほんいちさかになり、映画館えいがかんだけでも二十数軒にじゅうすうけんたっした。劇場げきじょう寄席よせおおく、横丁よこちょうにまであった。また、やすくてうまい大衆的たいしゅうてきもの提供ていきょうする屋台やたいがずらっとならんだ。都市とし労働者ろうどうしゃ代表だいひょう職人しょくにんだったこの時代じだい浅草あさくさはまさにかれらにもっと相応ふさわしい娯楽ごらくものたされた庶民しょみんまちだったのだ。

 レビュー レビューは、フランス語revueに由来ゆらいしていて、もともとは年末ねんまつにその一年間いちねんかん出来事できごと時事風刺劇じじふうしげきとしてえんじたものであった。

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学習がくしゅうポイント

  1. 戦前せんぜん庶民文化しょみんぶんか出版しゅっぱん文学ぶんがく
  2. 戦時中せんじちゅう政治環境せいじかんきょう日常生活にちじょうせいかつ
  3. 戦後せんご改革かいかく戦後文学せんごぶんがくとマス・メディア

 だが、日本にほんでは大正時代たいしょうじだい出来でき宝塚少女歌劇団たからづかしょうじょかげきだん松竹しょうちく少女歌劇団しょうじょかげきだん歌劇かげき公演こうえんがその濫觴らんしょうとなり、1927(昭和しょうわ2)ねん宝塚たからづか上演じょうえんされた「モン・パリ」の成功せいこうがその隆盛りゅうせいのきっかけとなった。このような少女歌劇団しょうじょかげきだんのほかに、東京とうきょう日本劇場にほんげきじょう育成いくせいされた日劇にちげきダンシング・チームと帝国劇場ていこくげきじょうえんじた松竹楽劇団しょうちくがくげきだんなどもレビュー文化ぶんか発展はってん貢献こうけんした。

 カジノ・フォーリーと「わらいの王国おうこく 昭和期しょうわきはいると、剣劇けんげきのほかにサイレント映画えいが軽演劇けいえんげき人気にんきはくした。1929ねん浅草水族館あさくさすいぞくかん本拠地ほんきょちとしたカジノ・フォーリーが「日本最初にほんさいしょのレビュー劇場げきじょう」として登場とうじょうする。カジノ・フォーリーはフランス語Casino Foliesに由来ゆらいし、レビュー方式ほうしきれたうたおどりに、風刺ふうしギャグをえて人気にんきはくした軽演劇けいえんげきである。その中心ちゅうしんとなった俳優はいゆう榎本健一えのもとけんいち(1904-70)はエノケンというユニークネームで活躍かつやくした。また、1933(昭和しょうわ8)ねんには古川緑波ふるかわろっぱ(ロッパ、1903-61)の発案はつあんで、「アチャカラ演劇えんげき」(歌舞伎かぶき演目えんもくのドタバタ喜劇化きげきか)を特徴とくちょうとする「わらいの王国おうこく」が出来できて、「エノケン・ロッパの時代じだい」となった。だが、「わらいの王国おうこく」の演劇えんげきは1941年頃ねんごろから、戦時体制せんじたいせいのため、兵隊へいたいものをれるようになり、2年後ねんご、「国民喜劇座こくみんきげきざ」と改名かいめい同年どうねんの6がつ解散かいさんした。

 エロ・グロ・ナンセンス 昭和初期しょうわしょきには、モダンなさか銀座ぎんざあたりから、「エロ・グロ・ナンセンス」という新語しんごもはやりした。エロはエロティック、グロはグロテスクのりゃくで、1930〜31ねん頂点ちょうてんとする退廃的風俗たいはいてきふうぞくう。エロもの怪奇物かいきもの出版しゅっぱん相次あいつぎ、さかではエロサービスをものにしたカフェーやバーがのきならべた。だが、31年以後ねんいご軍国主義ぐんこくしゅぎ台頭たいとうでこの享楽的きょうらくてき流行りゅうこうえることになる。

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(二)演劇えんげき出版しゅっぱん

 築地小劇場つきじしょうげきじょう 東京とうきょうにあった築地小劇場つきじしょうげきじょう昭和初期しょうわしょき文化ぶんかのシンボルのひとつだ。1924(大正たいしょう13)ねん土方与志ひじかたよし(1898-1959)と小山内薫おさないかおる(1881-1928)が開設かいせつした築地小劇場つきじしょうげきじょう日本初にほんはつ新劇しんげき劇場げきじょうである。海外かいがい演劇えんげき紹介しょうかいをしながら、国内こくない創作劇そうさくげき上演じょうえんもした。だが、1940(昭和しょうわ15)ねんごろから戦時色せんじしょくくなり、政府せいふ統制とうせいつよくなったため、国民新劇場こくみんしんげきじょう改称かいしょうし、1945ねん東京大空襲とうきょうだいくうしゅうによって建物たてもの焼失しょうしつした。

 漫画まんが 昭和時代しょうわじだい漫画まんがまえ時代じだい隆盛りゅうせいぎ、おおいに発展はってんした。とくに30年代ねんだいには講談社こうだんしゃの『幼年倶楽部ようねんくらぶ』、『少年倶楽部しょうねんくらぶ』に掲載けいさいされた子供こどもけの漫画まんが『のらくろ』、『タンクタンクロー』、『冒険ぼうけんダンきち』などが大人気だいにんきでベストセラーとなった。1931ねんから十年間じゅうねんかん連載れんさいされた「のらくろ」の内容ないようは、野良犬のらいぬ黒吉くろきち猛犬もうけん軍隊ぐんたい入隊にゅうたい活躍かつやくするというものだ。当時とうじ雑誌ざっしだけではなく、子供こどもけの「のらくろ」商品しょうひん続々ぞくぞく登場とうじょうし、現在げんざいでもキャラクター関連商品かんれんしょうひん販売はんばいされているほど人気にんきたかい。「タンクタンクロー」は1934ねんから二年間にねんかん掲載けいさいされた作品さくひんである。主人公しゅじんこうタンクローは、うみこうからめてきた怪人かいじんたおすヒーローであった。『冒険ぼうけんダンきち』は1933ねんから1939ねんにかけて連載れんさいされた。みなみしまおうとなった少年しょうねんダンきち様々さまざまてきつという内容ないようである。海外かいがい領土りょうど開拓かいたく邁進まいしんした時代背景じだいはいけいがあり、たいへんな人気にんきはくした。

 円本えんほん文庫ぶんこ 関東大震災かんとうだいしんさい不況ふきょう昭和初期しょうわしょき金融きんゆうパニックをに、出版社しゅっぱんしゃが「円本えんほん」という経営政策けいえいせいさくした。円本えんほんという名称めいしょうは1925ねん大阪おおさか、1927ねん東京とうきょう登場とうじょうした市内しない一円均一いちえんきんいつの「えんタク」から派生はせいしたとおもわれる。最初さいしょ改造社かいぞうしゃが1926ねん全巻ぜんかん予約制よやくせいつき一冊いっさつ配本はいほんの『現代日本文学全集げんだいにほんぶんがくぜんしゅう』を一冊一円いっさついちえん販売はんばいはじめたものだ。それ以降いこう新潮社しんちょうしゃをはじめ各社かくしゃ続々ぞくぞく円本えんほん出版しゅっぱんし、円本えんほんブームがおこった。

 この円本えんほんのブームに触発しょくはつされた岩波書店いわなみしょてんが1927ねん刊行かんこうはじめたのが、岩波文庫いわなみぶんこである。国内外こくないがい文学作品ぶんがくさくひん学術書がくじゅつしょ幅広はばひろ

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出版史上しゅっぱんしじょうおおきな意義いぎつ。円本えんほん文庫ぶんこによって、庶民しょみん書籍しょせき廉価れんかれることを可能かのうになった結果けっかおおくの日本人にほんじん国内外こくないがい文学ぶんがく芸術げいじゅつ思想しそう文物ぶんぶつしたしめるようになった。

(三)戦前せんぜん文学ぶんがく

 プロレタリア文学ぶんがく 1923(大正たいしょう12)ねん関東大震災かんとうだいしんさいき、その直後ちょくごに、「革命かくめい文学ぶんがく」を標榜ひょうぼうするプロレタリア文学ぶんがくがにわかに脚光きゃっこうびることになった。1921ねん最初さいしょ雑誌ざっしたねまくひと』がされたのち、1924ねんに『文芸戦線ぶんげいせんせん』が発刊はっかん、1928ねんには、全日本無産者芸術連盟ぜんにほんむさんしゃげいじゅつれんめい(ナップ)が結成けっせいされ、機関誌きかんし戦旗せんき』をした。代表的だいひょうてき作家さっかには葉山嘉樹はやまよしき(1894-1945)、小林多喜二こばやしたきじ(1903-33)、徳永直とくながすなお(1899-1958)などがいる。しかし、1933ねん2がつに『蟹工船かにこうせん』で有名ゆうめいである小林多喜二こばやしたきじ逮捕たいほなど、きびしい弾圧だんあつのために、プロレタリア文学ぶんがく運動うんどう退潮たいちょうしていった。

 新感覚派しんかんかくは文学ぶんがく 大震災だいしんさい翌年よくねんに、横光利一よこみつりいち(1898-1947)、川端康成かわばたやすなり(1899-1972)、片岡鉄平かたおかてっぺい(1894-1944)、中河与一なかがわよいち(1897-1994)らによって、同人雑誌どうじんざっし文芸時代ぶんげいじだい』が創刊そうかんされ、新感覚派しんかんかくはばれた。新感覚派しんかんかくはは、「社会しゃかい革命かくめい文学ぶんがく」としてのプロレタリア文学ぶんがくたいして、「文学ぶんがく革命かくめい」を目指めざした。伝統的でんとうてき私小説ししょうせつのリアリズムを否定ひていし、言語表現げんごひょうげん独自性どくじせい強調きょうちょうする作風さくふう特徴とくちょうである。

 モダニズムの文学ぶんがく 「芸術派十字軍げいじゅつはじゅうじぐん」を名乗なのった「十三人倶楽部じゅうさんにんくらぶ」(1929ねん結成けっせい)を母胎ぼたいとする新興芸術派しんこうげいじゅつはは、「エロ・グロ・ナンセンス」にいろどられた都会とかい風俗ふうぞくをスケッチすることを特色とくしょくとした。また、その傍流ぼうりゅう位置いちし、独自どくじ文学的ぶんがくてき個性こせい確立かくりつした作家さっかに、井伏鱒二いぶせますじ(1898-1993)、堀辰雄ほりたつお(1904-53)、梶井基次郎かじいもとじろう(1901-32)などがいる。

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第二節だいにせつ 戦時中せんじちゅう

(一)軍国主義ぐんこくしゅぎ時代じだい

 1937〜1945ねんまでの時代じだい日本にほん歴史上れきしじょう最大さいだい激動げきどう時代じだいである。とくに1941ねんから太平洋戦争たいへいようせんそうはじまり、日本全体にほんぜんたい戦争せんそうしょくとなった。

 軍国教育ぐんこくきょういく 1937ねん7がつ日中戦争にっちゅうせんそう勃発ぼっぱつし、「天皇陛下てんのうへいかノオンタメニ」、「大東亜共栄だいとうあきょうえいのため」という帝国ていこく理念りねんとなえられた。また、1941ねん1がつ8にち東條英機とうじょうひでき(1884-1948)陸相りくしょう全体ぜんたい将兵しょうへいに「戦陣訓せんじんくん」を示達じたつし、「皇軍道義こうぐんどうぎ」をもとめた。「小学校しょうがっこう」も「国民学校こくみんがっこう」(初等科しょとうか6ねん高等科こうとうか2ねんけい8ねん)とされ、義務教育ぎむきょういくとされた。これは、きびしい軍国主義的ぐんこくしゅぎてき教育内容きょういくないよう実行じっこうするためのもので、教材きょうざい半分はんぶん以上が、日本にほん神国しんこくとし天皇てんのう現人神あらひとがみとする軍国主義ぐんこくしゅぎおしえでめられ、「皇国民こうこくみん」の育成いくせい学校教育がっこうきょういく目的もくてきとなった。

 学校がっこうでは天皇てんのう皇后こうごう写真しゃしん勅語ちょくご詔書しょうしょうつしをおさめておく奉安殿ほうあんでんもうけて、生徒せいと最敬礼さいけいれいをさせ、卒業式そつぎょうしきうたも「蛍の光ほたるのひかり」から「愛国行進曲あいこくこうしんきょく」、「海行かばうみゆかば」にえられた。中等学校ちゅうとうがっこう大学だいがくなどにも「報国団ほうこくだん」を組織そしきさせ、戦争協力体制せんそうきょうりょくたいせいかためた。

 忠犬ちゅうけんハチこう 大正末たいしょうすえに、日本にほんもっと有名ゆうめいいぬとなったハチこう東京帝国大学とうきょうていこくだいがく現東京大学げんとうきょうだいがく農学部教授のうがくぶきょうじゅ上野英三郎うえのえいさぶろう博士はかせいぬだった。ハチこう毎日まいにちあさ夕方ゆうがた渋谷駅しぶやえきまで教授きょうじゅ送迎そうげいするという「日課にっか」をつづけ、上野うえの博士はかせ急死きゅうしも、ハチこう相変あいかわらず改札口かいさつぐちかたわらにって、主人しゅじんつづけた。その姿すがた人々ひとびと同情どうじょうをそそり、ハチこうはまだきていた1934ねんに、渋谷駅前しぶやえきまえにハチこう銅像どうぞうてられた。1948ねん再建さいけんされたハチこう銅像どうぞうは、いまわせの場所ばしょになって

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いる。だが、戦前せんぜんは「いぬでさえ主君しゅくんおんわすれないのだ」と喧伝けんでんされて、「忠君愛国ちゅうくんあいこく」の時代背景じだいはいけいつよ反映はんえいする昭和初期しょうわしょきのシンボルとなった。

(二)戦時下せんじか生活せいかつ

 耐乏生活たいぼうせいかつ勤労令きんろうれい 戦争中せんそうちゅうは、倹約けんやく第一だった。日中事変にっちゅうじへんからはじまった耐乏生活たいぼうせいかつは、「一汁一菜いちじゅういっさい」、「ぜいたくはてきだ」、「月月火水木金金げつげつかすいもくきんきん」、「ほしがりませんつまでは」などのスローガンをとおして実行じっこうさせられた。食事しょくじよそおいも質素しっそで、ネオンサインの全廃ぜんぱい飲食店いんしょくてん営業時間えいぎょうじかん短縮たんしゅく歳末さいまつ贈答ぞうとう廃止はいし、さらに一せんでも二せんでも倹約けんやくして、おくにのためにくそうと庶民しょみん同士でびかけった。

 1941ねんはじまった太平洋戦争たいへいようせんそう国民こくみん圧迫あっぱくし、その生活せいかつくらかげとした。各町内かくちょうないには隣組となりぐみつくられ、防空演習ぼうくうえんしゅうなどが協力きょうりょくしておこなわれた。食糧しょくりょう衣料いりょう燃料ねんりょうなどの日常生活にちじょうせいかつ必需品ひつじゅひん不足ふそくしたため、配給制はいきゅうせいはじまった。さらに1944ねんには学徒勤労動員がくときんろうどういんされ、中学生以上ちゅうがくせいいじょう工場こうじょうされ、女子じょしも14さいから勤労挺身隊員きんろうていしんたいいんとして、工場こうじょう農場のうじょうてられていることになった。

 1945ねんからは都市とし小学生しょうがくせいが、病身びょうしんその疎開不可能そかいふかのうもののぞいてほとんど、空襲くうしゅうけるために地方ちほう農村のうそん集団疎開しゅうだんそかいした。地方ちほう縁故えんこのない小学しょうがく3〜6ねん児童じどうは、親許おやもとはなれ、地方ちほう公堂こうどう寺院じいんなどのところみ、食糧不足しょくりょうぶそくなか耐乏生活たいぼうせいかついられた。村民そんみんとのあいだ悲惨ひさんあらそいや暴力事件ぼうりょくじけん相次あいついできた。

 出征しゅっせい千人針せんにんばり 1943ねんからは、徴兵年齢ちょうへいねんれい一年いちねんげられ、19さいになった。工場こうじょう時間制限じかんせいげん廃止はいしされ、学徒がくと出陣しゅつじんするようになった。赤紙あかがみ入隊にゅうたい時間じかん場所ばしょ記入きにゅうしてある出征通知しゅっせいつうち)をったら、出征しゅっせい準備じゅんびをしなければならなかった。女性じょせいたちは千人針せんにんばり用意よういした。これは、1メートルほどのしろぬのあかいと千人せんにんひと一人一針ひとりひとはりずつってむすけをつく習慣しゅうかんだ。千人針せんにんばりぬの当身あたみけていたら、てきたまたらないとしんじられていて、死線しせん(四せん)や苦線くせん(九せん

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えるように5銭玉せんだまや10銭玉せんだまいつけた千人針せんにんばりもあった。敗色はいしょくくなるにしたがって「一億総動員いちおくそうどういん」のもとに、国民学校こくみんがっこう高等科こうとうか卒業そつぎょうしたばかりの14さい少年飛行兵しょうねんひこうへい戦車兵せんしゃへい志願しがんすることが奨励しょうれいされ、少年兵しょうねんへい採用さいようおおくなった。

(三)戦時下せんじか文学ぶんがく

 1937ねん勃発ぼっぱつした日中戦争にっちゅうせんそうから太平洋戦争たいへいようせんそうにかけて、政府せいふ言論統制げんろんとうせいはさらにきびしくなり、戦争文学せんそうぶんがく国策文学こくさくぶんがく氾濫はんらんした。このねん石川達三いしかわたつぞう(1905-85)の「きてゐる兵隊へいたい」は戦争せんそう残酷ざんこくさをえがいたため、処分しょぶんになった。一方いっぽう翌年よくねん軍部報道員ぐんぶほうどういんとして徐州会戦じょしゅうかいせん従軍じゅうぐんした火野葦平ひのあしへい(1907-60)が、戦争体験せんそうたいけんえがいた「むぎ兵隊へいたい」(1938)は、戦争文学せんそうぶんがく代表だいひょうとして、もっとおおくの読者どくしゃた。また、1942ねんから「日本文学報国会にほんぶんがくほうこくかい」が組織そしきされ、大東亜共同宣言だいとうあきょうどうせんげん五大原則ごだいげんそくについての作品さくひん執筆しっぴつ作家さっか依頼いらいされるなど、国策文学こくさくぶんがくえていった。

第三節だいさんせつ 敗戦直後はいせんちょくご

(一)占領政策せんりょうせいさく新憲法しんけんぽう

 マッカーサーを総司令官そうしれいかんとする連合国軍れんごうこくぐんが、日本にほん無条件降伏むじょうけんこうふくとともに日本にほん占領政策せんりょうせいさく実施じっしした。連合国軍れんごうこくぐんは、人権確保じんけんかくほのための五大改革ごだいかいかくとして、婦人参政権ふじんさんせいけん獲得かくとく学校教育がっこうきょういく自由主義化じゆうしゅぎか労働組合ろうどうくみあい結成けっせい促進そくしん民衆生活みんしゅうせいかつ恐怖きょうふさせる諸制度しょせいど廃止はいし経済けいざい民主化みんしゅか実現じつげんなどをした。そして、1946ねん11がつ3にちには主権在民しゅけんざいみん戦争放棄せんそうほうき基本的人権きほんてきじんけん尊重そんちょうというあたらしい理念りねん新憲法しんけんぽう公布こうふされた。この新憲法しんけんぽうによって、選挙権せんきょけん生活せいかつにおける男女平等だんじょびょうどう六三三四制ろくさんさんよんせい教育体系きょういくたいけい設立せつりつ財閥解体ざいばつかいたい農地改革のうちかいかく政治犯せいじはん釈放しゃくほう実現じつげん保障ほしょうされた。

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(二)戦後せんご改革かいかく

 教育きょういく改革かいかく 1945ねん終戦しゅうせんむかえたのち連合国軍れんごうこくぐん最高司令官さいこうしれいかん総司令部そうしれいぶ(GHQ)の指示しじによって、それまでの軍国主義ぐんこくしゅぎ的、国家主義こっかしゅぎ的な教育きょういく方針ほうしんあらため、新憲法しんけんぽうのっとったあたらしい教育改革きょういくかいかく推進すいしんされた。1947ねんには、真理しんり平和へいわ希求ききゅうする人間にんげん育成いくせい理念りねんとする教育基本法きょういくきほんほうつくられ、男女共学だんじょきょうがくみとめられて、教育きょういく機会均等きかいきんとうすすんだ。教科書きょうかしょは、神話しんわ軍国主義ぐんこくしゅぎ的な表現ひょうげん個所かしょすみった「墨塗すみぬ教科書きょうかしょ」が使用しようされた。また、学校教育法がっこうきょういくほう制定せいていされ、義務教育ぎむきょういくが6ねんから9ねん延長えんちょうされ、六三三四制ろくさんさんよんせい新学制しんがくせいさだめられた。児童福祉法じどうふくしほう公布こうふされ、子供こども(5がつ5にち)というあたらしい祝日しゅくじつもうけられた。

 宗教しゅうきょう自由化じゆうか 1945ねん占領軍せんりょうぐん指示しじもと国家神道こっかしんとう禁止きんしされ、「政教分離せいきょうぶんり」の原則げんそくさだめられた。また、信仰しんこう自由じゆうになった。敗戦はいせん前には、国民こくみん天皇てんのう頂点ちょうてんとする国家神道こっかしんとう信仰しんこうしなければならなかったが、敗戦後はいせんごの1951ねんには宗教信仰しゅうきょうしんこう自由じゆうをポイントとした「宗教法人令しゅうきょうほうじんれい」が実施じっしされたのである。これにより日本にほん国民こくみんふたた宗教しゅうきょうにおける自由じゆうた。

 文化財ぶんかざい保護ほご 1949ねんに、奈良なら法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどう炎上えんじょうし、国宝こくほう壁画へきが大部分だいぶぶんくろこげになった。翌年よくねんの7がつには京都きょうと金閣寺きんかくじ精神異常者せいしんいじょうしゃによって放火ほうかされ、全焼ぜんしょうした。これらの出来事できごとがきっかけとなり、文化財保護法ぶんかざいほごほうさだめられた。従来じゅうらい国宝保存法こくほうほぞんほう重要美術品保存法じゅうようびじゅつひんほぞんほう史蹟名勝天然記念物保存法しせきめいしょうてんねんきねんぶつほぞんほう統合とうごうし、あたらたに無形文化財むけいぶんかざい埋蔵文化財まいぞうぶんかざいれた文化財保護法ぶんかざいほごほう制定せいていされたのである。

 昭和天皇しょうわてんのう 天皇てんのうながく、日本にほんという国家こっか象徴しょうちょうとしての地位ちい維持いじつづけてきた。日本人にほんじん国民性こくみんせいについて考察こうさつするさい天皇てんのうたいする意識いしきもっと重要じゅうようなポイントであろう。近代きんだいになってからは、天皇てんのう絶対的ぜったいてきな、名目めいもくとしては立憲君主制りっけんくんしゅせい法治国家ほうちこっかであるとはいわれたが、実質じっしつ強烈きょうれつ宗教国家的しゅうきょうこっかてき性格せいかく専制君主国家せんせいくんしゅこっかだった。

 しかし、敗戦はいせんともない、天皇制てんのうせい変革へんかくもとめられた。1946ねん元旦がんたんに天

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こうは「新日本建設しんにほんけんせつかんする詔書しょうしょ」をはっし、自分じぶんかみではなく人間にんげんであると宣言せんげんし、みずからの神性しんせい否定ひていをした。これが有名ゆうめいな「人間宣言にんげんせんげん」である。これにより天皇てんのうくに象徴しょうちょうとして新憲法しんけんぽうさだめる国事こくじかんする行為こういのみをおこなうようになった。

(三)戦後せんご文学ぶんがく

 戦後せんご言論げんろん自由じゆう出版しゅっぱん自由じゆうもどり、ふたた文学活動ぶんがくかつどうさかんになった。そのれいとして既成大家きせいたいか復活ふっかつ新戯作派しんげさくは登場とうじょうなどがげられる。永井荷風ながいかふう(1879-1959)、正宗白鳥まさむねはくちょう(1879-1962)、野上弥生子のがみやえこ(1885-1985)、太宰治だざいおさむ(1909-48)などの作品さくひん話題わだいになった。

 また、戦時せんじにおける人間にんげん極限状況きょくげんじょうきょうなどをえがき、戦争せんそう悲惨ひさんさ、残虐ざんぎゃくさなどをした大岡昇平おおおかしょうへい(1909-88)、武田泰淳たけだたいじゅん(1912-76)、椎名麟三しいなりんぞう(1911-73)、石川淳いしかわじゅん(1899-1987)、梅崎春生うめざきはるお(1915-65)、中村真一郎なかむらしんいちろう(1918-97)らの作家さっか第一次戦後派だいいちじせんごはばれている。それにつづいて、安部公房あべこうぼう(1924-93)や三島由紀夫みしまゆきお(1925-70)などの第二次戦後派だいにじせんごは登場とうじょうした。戦後派せんごは私小説ししょうせつ伝統でんとう断絶だんぜつした観念的かんねんてき作風さくふう特徴とくちょうとした。

 一方いっぽう、1950ねん前後ぜんごには、純文学じゅんぶんがく大衆文学たいしゅうぶんがくあいだという意味いみ中間小説ちゅうかんしょうせつという言葉ことば使つかわれるようになり、石坂洋次郎いしざかようじろう(1900-86)、舟橋聖一ふなはしせいいち(1904-76)などが活躍かつやくした。また、『太陽たいよう季節きせつ』(1955)の石原慎太郎いしはらしんたろう(1932-)の登場とうじょう以来、作家さっかがメディアでげられるようになり、文学ぶんがくとジャーナリズムの境目さかいめがだんだんと曖昧あいまいになっていった。

(四)マス・メディア

 ここでは時代じだい戦争直後せんそうちょくごかぎることなく、大正末たいしょうすえからのメディアのうごきを概観がいかんしてみたい。

 新聞しんぶん 大正時代たいしょうじだいには高学歴志向こうがくれきしこうたかまりと連動れんどうするようにマスメディアも普及ふきゅうして、人々ひとびと社会意識しゃかいいしき目覚めざめた。昭和初期しょうわしょきには、朝日新聞社あさひしんぶんしゃの『東京朝日新聞とうきょうあさひしんぶん』『大阪朝日新聞おおさかあさひしんぶん』、毎日新聞社まいにちしんぶんしゃの『東京日日

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新聞しんぶん』『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』の二社四大紙にしゃよんだいし全国規模ぜんこくきぼ新聞しんぶんとなった。これらの新聞しんぶんは、大正たいしょうデモクラシーの洗礼せんれいけて自由主義じゆうしゅぎ的な姿勢しせいたもち、国際協調こくさいきょうちょう軍縮政策ぐんしゅくせいさく賛同さんどう的であった。1930ねんごろからは、政府せいふ協調外交きょうちょうがいこう失敗しっぱい非難ひなんする報道記事ほうどうきじえ、国民こくみん危機意識ききいしきをかきてるようになった。しかし翌年よくねん満州事変まんしゅうじへんきてからは、全面的ぜんめんてき日本軍にほんぐん行動こうどう賞美しょうびする姿勢しせいてんじ、軍部ぐんぶ支持しじする「世論せろん」をつくげるかたち政府せいふささえる役割やくわりたした。

 『キング』と『新青年しんせいねん 大正時代たいしょうじだいから、週刊誌しゅうかんし少年しょうねん少女しょうじょ婦人ふじんけの雑誌ざっし続々ぞくぞく刊行かんこうされ、大衆たいしゅうけの娯楽雑誌ごらくざっし「キング」も1925(大正たいしょう14)ねん講談社こうだんしゃから刊行かんこうされた。この雑誌ざっしは、戦前せんぜん講談社こうだんしゃ看板雑誌かんばんざっしで、日本出版史上にほんしゅっぱんしじょうはじめて発行部数はっこうぶすう100万部まんぶ突破とっぱした。小説しょうせつ講談こうだん知識ちしき説話せつわわらばなしなど、ボリュームのある内容ないよう安値やすね提供ていきょうする雑誌ざっしであったが、戦後せんご用紙統制ようしとうせいもあって、戦前せんぜんのようなきにはたっせず、1957ねん廃刊はいかんした。

 日本推理小説界にほんすいりしょうせつかいおおいに貢献こうけんした雑誌ざっしは『新青年しんせいねん』である。1920(大正たいしょう9)ねん創刊そうかんの『新青年しんせいねん』は、1920〜30年代ねんだい流行りゅうこうしたモダニズムの代表的だいひょうてき雑誌ざっしで、都会とかいのインテリ青年層せいねんそうあいだ人気にんきはくした。1923ねん掲載けいさいされた江戸川乱歩えどがわらんぽ(1894-1965)の「二銭銅貨にせんどうか」(1923)は、既存きそん作家さっか新人作家しんじんさっかおおきな影響えいきょうあたえた。また、乱歩らんぽは1928ねんに「陰獣いんじゅう」をして人気にんきはくした。『新青年しんせいねん』はそのほか推理小説すいりしょうせつのほかにユーモア小説しょうせつ、コント、学生野球がくせいやきゅう記事きじ、ファッション、音楽時評おんがくじひょう映画界えいがかい噂話うわさばなしなども掲載けいさいしている。日中事変にっちゅうじへん時期じきには戦争実録せんそうじつろく掲載けいさいした。戦後せんごは、『宝石ほうせき』、『ロック』などあたらしい雑誌ざっしされ、1950ねんの7がつごう終刊しゅうかんとなった。

 放送文化ほうそうぶんか ラジオ放送ほうそう大正時代たいしょうじだいわりにはじまり、1926(大正たいしょう15)ねん8がつには社団法人しゃだんほうじん日本放送協会にほんほうそうきょうかい発足ほっそくした(1950ねん改組かいそげんNHK)。いまおこなわれているラジオ体操たいそうは1927ねん昭和天皇しょうわてんのう即位そくい記念きねんして放送ほうそうされ、国民的体操こくみんてきたいそうとなった。また、大戦終戦たいせんしゅうせん直後ちょくごの1945ねん大晦日おおみそかには「紅白歌合戦こうはくうたがっせん」の前身ぜんしんの「紅白音楽試合こうはくおんがくしあい」というラジオ

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番組ばんぐみ放送ほうそうされている。1947ねんからは3ねんにわたって、戦災孤児せんさいこじたちが、たすってあかるくきていけるようになるまでをえがいた「かねおか」というラジオドラマがながされ、おおヒットした。また、映画えいが「そよかぜ」の挿入歌そうにゅうかだった「リンゴのうた」が大流行だいりゅうこうし、戦争せんそうつかれた国民こくみんこころいやした。歌謡界かようかいでは、美空みそらひばり(1937-89)が1949ねんにデビューし、その国民的こくみんてき歌手かしゅとして大人気おおにんきはくすることになる。1951ねんにはラジオの民間放送みんかんほうそうはじまった。

 テレビ放送ほうそうは1953ねん、NHKが開始かいしし、紅白歌合戦こうはくうたがっせんのテレビ放送ほうそうはじまった。おなとしなつには民間みんかんテレビきょく放送ほうそう開始かいしされていた。ただ、放送開始ほうそうかいし直後ちょくご受信機じゅしんき価格かかくたかいため、一般庶民いっぱんしょみんにはとどかず、えき街頭がいとう設置せっちされた「街頭がいとうテレビ」のまえ黒山くろやまひとだかりとなった。テレビは1950年代後半ねんだいこうはんには、冷蔵庫れいぞうこ洗濯機せんたくきとともに「三種さんしゅ神器じんぎ」とばれ、ゆたかな生活せいかつ象徴しょうちょうとなる。

文責ぶんせき:黄翠娥)

確認かくにんしてみよう

一、つぎ文章ぶんしょうみ、ただしいものを下記かきからひとえらびなさい。

  1. わらいの王国おうこく」をつくった代表的だいひょうてき二人ふたりは(a. 川端康成かわばたやすなり榎本健一えのもとけんいち、b. ロッパと川端康成かわばたやすなり、c. 榎本健一えのもとけんいちとロッパ)である。
  2. 戦前せんぜん出版界しゅっぱんかい庶民しょみん文学ぶんがくしたしませるのに、もっともおおきく貢献こうけんしたのは(a. 円本えんほん文庫ぶんこ、b.「浅草紅団あさくさくれないだん」、c.「うみきる人々ひとびと」)をしたことである。
  3. 新感覚派しんかんかくはは(a. 文学ぶんがく革命かくめい、b. 革命かくめい文学ぶんがく、c. 国策文学こくさくぶんがく)だった。
  4. 1920〜30年代ねんだい推理小説すいりしょうせつ掲載けいさいして有名ゆうめいになった雑誌ざっしは(a.「キング」、b.「戦旗せんき」、c.「新青年しんせいねん」)である。
  5. 昭和天皇しょうわてんのうは1946ねんに(a. 万世一系ばんせいいっけい、b. 人間宣言にんげんせんげん、c. 宣言せんげん一つ)という詔書しょうしょはっした。

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二、つぎ文章ぶんしょうみ、空欄くうらん適切てきせつ言葉ことばれなさい。

  1. (     )という小説しょうせつられた小林多喜二こばやしたきじは1933ねん虐殺ぎゃくさつされた。
  2. 戦前せんぜん庶民しょみんまちとして名高なだかかったのは(     )である。
  3. 戦時中せんじちゅう出征通知しゅっせいつうちは(     )とばれた。
  4. 戦時中せんじちゅう耐乏生活たいぼうせいかつは(     )、(     )、(     )などのスローガンをとおして実行じっこうされた。
  5. 1945ねん占領軍せんりょうぐん指示しじもと国家神道こっかしんとう禁止きんしされ、(     )の原則げんそくさだめられた。

三、つぎ文章ぶんしょうみ、設問せつもんこたえなさい。

  1. カジノ・フォーリーとはどのようなものでしたか。
  2. 千人針せんにんばり」についてべなさい。
  3. 何故なぜ忠犬ちゅうけんハチこう銅像どうぞうまでつくられたのでしょうか。
  4. 戦後せんご教育きょういく改革かいかくについて説明せつめいしなさい。
  5. 第一次戦後派だいいちじせんごは特徴とくちょうこたえなさい。

参考文献さんこうぶんけん

武田祐吉ら『日本文学史』、角川書店、1973年
新間進一、井上宗雄、前田愛『日本文学史』、旺文社、1975年
和歌森太郎『日本生活文化史10 軍国から民主化へ』、河出書房新社、1975年
『日本近代文学大事典』講談社、1984年
杉原荘介ら『日本史の基礎知識』、有斐閣ブックス、1993年
芳賀登『日本生活文化史序論—歴史学を人々に』、つくばね舎、1994年

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南博『日本人論 明治から今日まで』、岩波書店、1997年
張瑞雄、林顯宗『日本社会』、致良出版、2000年
中澤伸弘『日本の文化』、ナツメ社、2003年
韓立紅『日本文化概論』、南開大学、2003年
樋谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』、文藝春秋、2003年
村上重良『日本史の中の天皇』、講談社、2004年
樋谷秀昭『昭和精神史』、文藝春秋、2005年
致良日語工作室編譯『日本剖析』、致良出版、2006年

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